わたしのアンテナ~心地よく今を過ごせますように~

「あの時の私は 毎日、何をしていたのだろう?」と思うのがイヤなので、記録するという趣味である記録ブログです

望みが叶った日〜新月の前日〜

2015年5月
父がS状結腸がん、
多発肝転移であると診断された時

 

 


父とわたし達、家族が
それぞれに出来ることで

 


父の望みに寄り添っていくことを
決めた時から

 


わたしにとっての

「生と死の学び」が
始まっていたんだと


そう思う。

 

 


わたしは父とよく似ていると
言われている。

 


父を頼りにし、灯りとしていた。

 


似た感覚を持つ者に
なってくれていて

 


わたし以上にわたしを
信じてくれていた人であり

 


わたしに生き延びる術を
与え続けてくれ

 


わたしを安心させてくれていた。

 

 

 

 

そんな父との別れの日が
近づいてくる。

 

 


それだけで、
わたしの胸は
もう既に切迫していた。

 

 


父はおそらく、
そんなわたしのことが
気掛かりであったと思う。

 

 


わたしは
父が寛解することを願いつつ

 


父の望む最期を
迎えられることを祈っていた。

 

 

 

 


2016年9月30日は新月の前日だったんだ。
(手帳を開いてみて今、知った)

 

 

「覚悟を決めます」

 


なにかの会話の中で
父が言ったその言葉が

 


その日…

 


聴こえていた気がする。

 


わたしはなんとなく
感じていた。

 

 

 


父が覚悟を決めて
最期の息をした時刻

 

 


18時56分

 

 

 

 

そして しばらくして
心臓の鼓動が止んだ

 

 

 

 


生ききった時

 

 


肉体を持つ父から


肉体を持たない
光の父になった時

 

 

 

それを
わたしが観測した時刻を
死亡時刻とした。


(この後、しばらくしてから
 訪問診療をお願いした病院に連絡をする。
 数時間後に医師が到着。
 死亡確認後、
 死亡診断書の死亡時刻の記載を
 どちらでするかを尋ねられた。)

 

 


たった今

起きたことだったけれども

 

 


もうこの肉体の
どこにも父の意識はないと


あっさり理解した気がする。

 

 


父の目の輝きが
遠くを照らしたような

 


父が
光に吸い上げられたような

 


そんな風に
わたしには見えた。

 

 

 


この
目に見える世界にいながら


生きているわたしが

 


自分を肉体と意識に分けて
ハッキリと感じることができた。

 


生きながらにして
一度、死ぬような感覚。

 

 


それを伝えてくれた父に


沢山のことを教えてくれた父に

 

 


わたしの声が届くように
大きな声で

 


「ありがとう」と言った。

 

 

 

 

 


この日から数ヶ月後に


わたしは、安心に包まれることとなる。

 

 

 


人は肉体を借りて
目に見える この世界に
生きていて

 


人は肉体を離れても
目に見えない 別の世界に
存在し生き続けるんだと

 

 


心からそう思う。

 

 


そう思えることで
わたしはわたしを
信じるということを知り

 

 


この目に見える世界に
生まれさせてくれたことの
感謝の気持ちにも


気付かせてもらうこととなる。

 

 

 

 

 


在宅診療に決めた理由は、

 

「終の住処は
   快適空間のある自宅」と
  


 この望みを叶えるためだ。

 

 

 

 

在宅診療を決め面談に行き、
転院を受け入れてもらった日から
父の望みが叶う日までの15日間

 


あっという間だった。

 

 

 


あの日…

帰りの車の中から見た景色…


「ええなぁ…」と父は言った。

 

 


視線の先には…


「収穫を待つ 黄金色の稲穂たち」

 

 

 


このままずっと
一緒にいたい気持ちを
そっと横に置き


家まで送っていった。

 

 


あー


自分が
大切に思う相手をここに残し、


自分が

ここから去ることになるとは


いったい、
どういうことだろう。

 


決して自分が

ここから去りたいと
望んだわけでもなく

 


むしろ、
いつまでも共にいたいと
望んでいるにも関わらず だ。

 


おそらく父も

それぞれに出来ることで
自分の望みでもあり
皆の望みである望みを叶えることに
限りなく専念したのだろう。

 

 


新月の前日に
全てを済ませ


覚悟して次のステージに
生まれたんだな

 


そんな
あまりにもキリのいい日
だったから

 


ますます覚悟を感じて
泣けてくる。

 

 

 

 


「長くて 短い」

 

 

この言葉は
命を懸けて、命を使って、
父が命をみせてくれたから

 

 


わたしが多くの方に
お伝えしたいこととして
出てきた言葉である。

 


長いようでいて
人の一生は
とても短い。

 

 


人が生まれ 人が死ぬ
その過程である、日常。

 

 


真新しい今日に感謝し


日常で起こる出来事に
真摯に向き合い過ごしていく。

 


そう在ろう。

 


この世界に生かされている
今の連続の中


わたしに出来ることをする。

 

 


それが
「生きて過ごす」と


いうことであると思う。

 

 


日常で起こる出来事の中
閃いたり、気づいたりしたことを


わたしの素直な言葉にして
文章にして、詩にして
多くの方に届けていこう。

 


その言葉が
受け取ってくださった方の


本当の自分の声を聴く
キッカケとなることを祈ると共に


魂のままの生き方を
選択するお手伝いとなることが
わたしの喜びとなります。

 


最後まで聴いてくださり
ありがとうございます。


わたしの感じたことを
話す場が在ることに感謝します。

 

 


これからも
よろしくお願いします😊